公開型サバイバルオーディション「PRODUCE 101 JAPAN」(通称:日プ)の過酷な審査を突破し、JO1に加入した與那城奨さん。メインボーカルであると同時に、ひたむきに周囲を支えまとめているリーダーです。K-POP授賞式など海外のイベントに出演する際には英語でスピーチし、グローバルに活躍するアーティストの使命と責任を果たしています。それにしてもなぜ與那城奨さんは英語が得意なのでしょうか。この記事では與那城奨さんの経歴と共に、英語が得意な理由を解説します。
なぜ與那城奨は英語が得意?
與那城奨さんが英語を得意としている理由は、幼い頃から海外に憧れを抱いていたため。初めての渡航は高校時代、地元の沖縄県が宣伝していた高校生向けの海外研修を知り、思い切って応募しました。中学時代から授業で英語を学んでいただけでしたが、並々ならぬ熱意を面接でみせたらしいです。その甲斐あって選考を通過し、アメリカ北西部に位置するモンタナ州で3週間ほど過ごしました。ホームステイ先ではスマホの翻訳機能を利用しながら会話していましたが、周囲の人と「Hi!」と気軽に挨拶をかわす雰囲気に心地よさを感じたそうです。
與那城奨の経歴について
中学卒業後、沖縄県立那覇西高等学校に通っていた與那城奨さん。高校時代はボクシング部に所属してミドル級(体重70~75キロ)の選手として活躍していました。当時、沖縄県内にミドル級の選手が非常に少なかったため、戦わずに県大会で優勝したことがあるそうです。とはいえ非凡な才能を持っていたのではないでしょうか。JO1のメンバーとしてABEMAのスペシャルチャンネルに出演し、ボクシング元世界王者の亀田興毅さんと対戦した際には、奇跡的にクリーンヒットを当てていました。
高校時代はボクシング部やダンス部に所属する傍ら、同級生と一緒にバンド活動にも力を注いでいました。実は幼い頃から父親の影響で音楽を聴き、歌うことが好きでした。そのためライブハウスのステージに立って歌声を披露する中、将来はアーティストの道に進みたいという思いが強くなりました。両親は高校卒業後に上京したいという與那城奨さんの希望を尊重しつつ、大学卒業と26歳までに芸能界デビューできなければ就職するという条件を提示。故郷を離れてチャレンジしようとしている息子の身を心配していたのでしょう。
與那城奨の大学はどこ?
與那城奨さんが進学した大学は、東京都渋谷区にキャンパスがある日本経済大学経営学部芸創プロデュース学科です。芸能界デビューを夢見ていた與那城奨さんにとって、常日頃から都心にいられる同大学はうってつけの環境でした。また経営学に関する教育だけでなくキャリアサポートが充実していたために、自分の将来を主体的に考える習慣が自然と身に付き、自己分析とプロデュースが得意になりました。メジャーデビュー以降、與那城奨さんは同大学を代表する卒業生の1人となり、4年連続で学校案内の表紙を飾っています。
大学で英語への情熱が再燃
大学在学中にはホームステイ終了後に低下していた英語学習の意欲が再燃。洋画や洋楽の鑑賞を趣味としていたこともあり、英語を流暢に話したいと真剣に考えるようになりました。そのため教授に英会話の相手をしてもらったり、留学生に英語で話しかけたり、さまざまな方法で英語力を磨いていたのだとか。「日プ」出演時にも凄まじいハングリー精神をみせていましたが、大学時代からその片りんがあったのかもしれませんね。
オーストラリアに留学
大学4年生の夏季には、それまで地道にアルバイトで貯めた資金を元手にオーストラリアの北東部に位置するクイーンズランド州へ留学。大学で努力を積み重ねていたため、現地の授業内容をそれなりに理解できるレベルまで成長していました。ただ日常生活において英語で相手の会話に一歩ふみこめず、思い通りに交流を深められませんでした。ゆえに歯がゆさを感じる場面もあったらしいです。
独学で英語力を向上
自身の英語力が未熟であることを実感し、3週間ほどの留学が終わって帰国すると直ぐに英会話教室に利用申し込みを提出しました。その一方で路上ライブを実施したり、オーディションを受けたりとアーティストになるための活動を本格化し、以前のように英語学習の時間を確保できませでした。しかし高校時代と同じ轍を踏まず、空き時間に海外の動画や映画を見て、積極的に英語に触れる機会を作っていました。
イケメン店員として番組に登場
進学するうえで生活費を自分で稼ぐことが条件だったため、忙しい合間をぬってアルバイトにも精を出していました。レストランや居酒屋など飲食店で主に働き、時には厨房に入って料理の技術を学んでいたそうです。大学2年生の頃には有名焼肉店・肉のヒマラヤ焚火家でバイトリーダーを務めていたところ欅坂46の冠番組でイケメン店員として紹介されました。この焼肉店ではJO1としてデビューする直前まで勤務し、スタッフの間で看板息子といわれるほど大人気でした。お店の売り上げにかなり貢献していたのではないかと推測できます。
アルバイト仲間の後押し
上京前に両親と約束していた通り学士を取得し、留年せずに大学を卒業したものの、在学中の約4年間に芸能界デビューにつながる結果を出せませんでした。転機が訪れたのは大学卒業後に上述の焼肉店でアルバイトを続けていた時。アルバイト仲間から「日プ」の募集要項を教えてもらい、その気遣いに後押しされて参加を決意しました。「日プ」に参加した時点ではダンス未経験でしたが、持ち前の積極性と抜群の運動神経によって急速に上達し、最終審査でデビュー圏内にランクイン。日本発のグローバルボーイズグループのメンバーになりました。
まとめ
與那城奨さんは世界をまたにかけて活躍する中で言葉の重要性を感じ、英語の学習を熱心に続けているそうです。2025年8月には国連幹部が集まるレセプションにパフォーマンスゲストとして参加し、沖縄県出身である自身のルーツに触れつつ平和と環境保全に対する思いを英語でスピーチ。魂のこもったメッセージは国境という垣根を越えて多くの人々に感動を与えています。今後も與那城奨さんは日本と海外をつなぐ架け橋となり、より一層に輝きを放つのではないでしょうか。
